2006年02月16日
アラスカから届いた「八重山」(前篇)
星野さんは1952年千葉県市川市生まれの「千葉んちゅ」でした(!)。
中学生の頃から、ずっと熊のことばかり考えていて、熊に近づくために写真家の道へ。
やがて、アラスカに移住し、動物写真での第一人者となりました。
1996年、TBSの撮影に同行中、テントを熊に襲われ急逝しました。
よーかいは、星野道夫さんのご存命中には、あまり真剣に星野さんの写真を見たことはありませんでした。
アザラシの赤ちゃんの写真とか、なんだか“かわいい写真”を撮る人なんだなぁ…というくらいの認識でした。
星野さんに対する認識が変わったのは、たしか2002年に「旅をする木」というエッセイを読んでからでした。
静かで、悠然と穏やかなのだけど、すごく繊細で心に残る、詩情豊かな文章を書くひとでした。
例えば、友人とオーロラを待ちながら会話をしているこんな場面。
(以下引用)
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。
たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。
もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。
自分が変わってゆくことだって・・・・・その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」
人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。
この世へやってきたばかりの子どもへも、去っていこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。
(引用ここまで)
「ノーザンライツ」という、アラスカを舞台にしたノンフィクションも、写真家というよりはルポタージュ専門に書いている人の文章か、あるいはよくできた小説のようでした。
登場人物たちは一見、アラスカに住んでいる人たちのことを、ばらばらに書いたように見えます。
でも、それがだんだんとひとつのつながりになっていって、人生が交差していくのです。
交差した瞬間、ほのかに灯りがともるような文章にうたれました。
ちょうどそれらの本を読んでいたとき、写真展「星野道夫の宇宙」が開催されていました。
なにげない気持ちで足を運んだのですが、よーかいは“写真”というものに対する見方が変わるほどの体験をしました。
写真って、世界を切り取るわけですから、どうしても写す人の世界への「解釈」が入ってきます。
それまでは、なんだかそういった「解釈」を受け取ることを迫る、写真の「押しつけがましさ」みたいなものに対する反発が自分の中にありました。
ところが、星野さんの写真は、少しも押しつけがましくないのです。
それどころか、人も動物も、草花や光や空気も、みんな等しく美しい存在として写っているようでした。
それは、星野さんが敬愛していたアラスカのイヌイット(エスキモー)たちに語り継がれる神話が、人も自然も動物たちも、まったく分け隔て無い“同格”の存在として描いていることに、似たのかもしれません。
星野さんの写真が表しているものを一言で表現しようとするならば、よーかいは「かなし」という言葉だと思いました。
“愛しい”という意味です。
ヤマトの古語でも使われていますが、ウチナーグチでも同じ意味です。
あまりに大事に思うと、その気持ちはなんだか静かに、悲しみにも似てしまうのだなぁと思います。
さて、ここまで星野さんの話を書いてきて、いったい沖縄とどう結びつくのか?といぶかしく思った方もおられると思います。
実は、星野道夫さんの遺作となった文章は、八重山のことをつづった文章だったのです…!
(つづく)
中学生の頃から、ずっと熊のことばかり考えていて、熊に近づくために写真家の道へ。
やがて、アラスカに移住し、動物写真での第一人者となりました。
1996年、TBSの撮影に同行中、テントを熊に襲われ急逝しました。
よーかいは、星野道夫さんのご存命中には、あまり真剣に星野さんの写真を見たことはありませんでした。
アザラシの赤ちゃんの写真とか、なんだか“かわいい写真”を撮る人なんだなぁ…というくらいの認識でした。
星野さんに対する認識が変わったのは、たしか2002年に「旅をする木」というエッセイを読んでからでした。
静かで、悠然と穏やかなのだけど、すごく繊細で心に残る、詩情豊かな文章を書くひとでした。
例えば、友人とオーロラを待ちながら会話をしているこんな場面。
(以下引用)
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。
たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。
もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。
自分が変わってゆくことだって・・・・・その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」
人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。
この世へやってきたばかりの子どもへも、去っていこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。
(引用ここまで)
「ノーザンライツ」という、アラスカを舞台にしたノンフィクションも、写真家というよりはルポタージュ専門に書いている人の文章か、あるいはよくできた小説のようでした。
登場人物たちは一見、アラスカに住んでいる人たちのことを、ばらばらに書いたように見えます。
でも、それがだんだんとひとつのつながりになっていって、人生が交差していくのです。
交差した瞬間、ほのかに灯りがともるような文章にうたれました。
ちょうどそれらの本を読んでいたとき、写真展「星野道夫の宇宙」が開催されていました。
なにげない気持ちで足を運んだのですが、よーかいは“写真”というものに対する見方が変わるほどの体験をしました。
写真って、世界を切り取るわけですから、どうしても写す人の世界への「解釈」が入ってきます。
それまでは、なんだかそういった「解釈」を受け取ることを迫る、写真の「押しつけがましさ」みたいなものに対する反発が自分の中にありました。
ところが、星野さんの写真は、少しも押しつけがましくないのです。
それどころか、人も動物も、草花や光や空気も、みんな等しく美しい存在として写っているようでした。
それは、星野さんが敬愛していたアラスカのイヌイット(エスキモー)たちに語り継がれる神話が、人も自然も動物たちも、まったく分け隔て無い“同格”の存在として描いていることに、似たのかもしれません。
星野さんの写真が表しているものを一言で表現しようとするならば、よーかいは「かなし」という言葉だと思いました。
“愛しい”という意味です。
ヤマトの古語でも使われていますが、ウチナーグチでも同じ意味です。
あまりに大事に思うと、その気持ちはなんだか静かに、悲しみにも似てしまうのだなぁと思います。
さて、ここまで星野さんの話を書いてきて、いったい沖縄とどう結びつくのか?といぶかしく思った方もおられると思います。
実は、星野道夫さんの遺作となった文章は、八重山のことをつづった文章だったのです…!
(つづく)
Posted by チバりよ at 00:01│Comments(2)
│よーかい
この記事へのコメント
知りませんでした。続きが楽しみです。
星野道夫さんの文章って、キラキラ光る
きれいな小石みたいです。
生きることの尊さを綴る文章がスバラシイです。
急逝してしまうことを予感していたとは
思えないけど、なくなった後読むとあまりに
切なくて。
星野道夫さんの文章って、キラキラ光る
きれいな小石みたいです。
生きることの尊さを綴る文章がスバラシイです。
急逝してしまうことを予感していたとは
思えないけど、なくなった後読むとあまりに
切なくて。
Posted by 南島中毒 at 2006年02月16日 10:43
>南中さん(←略してしまったけれど、だいじょうぶかな…?)
書き込みどうもありがとうございます♪(^▽^)
南中さんのブログもいつもスーミーしています(爆)。
星野さんの文章は「キラキラ光るきれいな小石」
うーん、まったく同感です!
それにしても、綺麗な表現ですね~(^.^)
うん…自分も、星野さんの写真や文章を読んでいると、悲しいわけじゃないし、むしろとってもいとおしいのに、泣きたい気持ちになってしまいます。
この「後篇」は、今日の日付が変わる頃、アップします♪
ゆたしくです(^-^)
>みなさん
よーかいは、ちょっと「ゲンキ坊や」をめぐる冒険の旅(?)に出ます。
これから3、4日ほどレスをつけることができなくなりますが、ご了承くださいm(_ _)m
書き込みどうもありがとうございます♪(^▽^)
南中さんのブログもいつもスーミーしています(爆)。
星野さんの文章は「キラキラ光るきれいな小石」
うーん、まったく同感です!
それにしても、綺麗な表現ですね~(^.^)
うん…自分も、星野さんの写真や文章を読んでいると、悲しいわけじゃないし、むしろとってもいとおしいのに、泣きたい気持ちになってしまいます。
この「後篇」は、今日の日付が変わる頃、アップします♪
ゆたしくです(^-^)
>みなさん
よーかいは、ちょっと「ゲンキ坊や」をめぐる冒険の旅(?)に出ます。
これから3、4日ほどレスをつけることができなくなりますが、ご了承くださいm(_ _)m
Posted by よーかい at 2006年02月16日 15:19
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