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2005年12月09日

琉球王朝による神殺し

琉球王朝による神殺し
(写真は伊波普猷著「沖縄女性史」。)
※今回は3回シリーズの2回目です。

「神殺し=うた殺し」は琉球でも行われました。

1700年代の琉球には、天才歌人と呼ばれる恩納ナビという女性がいました。
彼女の詩を以下に挙げます。(「沖縄女性史」より。)

よかてさめ。姉部(あねべ)。
神遊(しのぐ)しち遊で。
わすた世になれば、
お止めされて。

【よーかい訳】
姉ちゃんたちはいいなぁ。
シノグ遊び(←後述します)で踊ることができてさぁ。
なのにあたしの時代には禁止されてしまったよ。
(あーもうつまんないなぁ…。)

もう一編。

恩納松下に、
禁止(きじ)の牌の立ちゆす、
恋忍ぶまでの
禁止や無いさめ。

【よーかい訳】
恩納村の役場前の松の木の下に、禁令の掲示が物々しくだされたよ。
(毛遊びの禁止だってさ、笑わせるんじゃないわよ)
この世の中に、恋をするのを禁止する馬鹿な法律ってある?
んなもんあっていいわけないに決まってんじゃん、ばーか。

以上のうたを見てみると、1700年代に入ると琉球でも「うた」や踊り、芸能などに対する弾圧が始まったことがわかります。
「神遊(しのぐ)」とは、世の常のあそびではなく、特別な日に裸になって唄い舞い踊るものでした。
稲の豊穣を祈る神祭りでもあり、同時にただの「裸踊り」ではなく、男女の恋の場でもありました。
伊波普猷は「しのぐ禁止」について、
『(この時代からは)儒教的気分もひとしお濃厚であったから、風俗取締りの令達なども濫発されたと見て差し支えない。それに時の冊封使徐保光のごとき北山観光までやったから、その巡遊の道筋に当る村落では、「しのぐ」なども禁止されたであろう。』
と述べています。
よーかい的には、冊封使ならもっと前の時代から何度も琉球入りしている点と、以前書いたように儒教の影響だけでは「うた」や風俗の弾圧は厳しくなかった点の両方併せて考えると、伊波普猷の分析には異論があります。

ともかくも、交通の不便なこの時代、首里よりずっと北の恩納村で「うた」や芸能・風俗への弾圧があったということは、首里付近ではもっと早くからその傾向があったと見ても差し支えないでしょう。

奇しくもそれは、島津侵攻(1609年)以降の時期に重なります。

前回書いた、ヤマトで「聖」から「俗」への転換が起きた後も、琉球の事情は違いました。
琉球はヤマトと違い、自然の「聖性」や、「八百万の神々」がまだまだ元気に息づいていました。
近代以降も、身近なところでは「キジムナー」というガジュマルの精霊が有名です。
また、海洋民だけあって、例えば糸満のロンドンガマの民話のように、漂流民や異人の存在など多様性は当たり前でもありました。
精神を病んだ人は「ユタ」や「神人」として敬われたりもしました。(もちろん、本当に霊力の高いユタもたくさんいます。)
女性に対しても、王の妹は「聞得大君」という最高神官に就いたり、男性の妹は「おなり神」といって、特別な守護する霊力があるとされ尊重されてきました。
神々と「うた」のつながりについては、はからずもユタの語源は「ユンタ」から来ているという説もあるくらいです。
また、神女を中心に口伝で伝わった神歌や、先に挙げた「しのぐ」なども行われました。
それは、琉球には自然神、八百万の神々がまだ息づいていたから「うた」も存在していたのです。

しかし、首里を中心にした琉球王朝は、非常に「外部の目を怖れる」政権でした。
日本と中国の両方に属しながらも、首里政府はヤマトの支配下に入ったことを中国に悟られないように、様々な工作を行いました。
例えば、中国の使節が来ている間は、期間限定で大和言葉、大和年号、大和名、大和歌、大和銭の使用などをことごとく禁止したりと、ヤマトとの関係をひた隠しにしました。
薩摩も琉球政府が中国に対して行う貿易の「あがり」を期待していたので、それに協力しました。

そうやって八方美人な「ご機嫌採り」をしているうちに、どんどん歪みが発生してきました。
首里城の構造など、首里政府関連の建築物はどんどん「中国風」になっていき、一方でヤマトによる支配を正当化するために、「日流同祖論」が羽地朝秀(向象賢)によって唱えられもしました。
いわば、積極的な奴属への道です。

どこの権力者もそうであるように、首里の琉球王朝も、自分たちの権力の維持が最優先課題でした。
民衆のことなど「収入源」くらいにしか考えていなかったのです。
とくに、首里政府は宮古や八重山の人間を「自分たちよりも劣位の人種」とみなしていたふしがあります。
過酷な人頭税の取り立ては、薩摩の役人が行うよりも、首里から派遣された役人の方がより厳しく残忍に行われました。
その悲惨は、今でも宮古に残る「人頭税石」や与那国島の「久部良バリ」や「人舛田(トゥングタ)」を見れば明らかです。

そんな「保身」のために、首里政府は、ヤマトから見て「異質・野蛮」な風習は自らどんどん廃し、弾圧していきました。
それが、冒頭に挙げた、恩納ナビが嘆いている「しのぐ」や「毛遊び」の禁止にも現れたようです。
どうやらこの時期から、首里を中心に、多くの古来からの文化や「うた」が失われたようです。

琉球で女性の地位が低下したのもやはりこの時期以降になります。
その一つの証左として、羽地朝秀が政治の舞台に女性が参加するのを退けたことは記録にも残っています。

また、この頃から首里付近の「士族の芸能」は女人禁制になりました。
エイサーなども、近世は士族の芸能の流れで女性の参加は禁じられていました。
一方、首里の影響力が少なかった山原(やんばる)では、大宜見村の臼太鼓(ウフデーク)のように男子禁制の祭も残っていますし、国頭村の「与那エイサー」では、昔から女性だけのエイサ-が行われています。
こうしてみると、首里政府の魔手が及ぶ以前は、もっと多様な「うた」や芸能が存在していたことがわかります。

しかし、民衆もただ黙って首里政府の権力に屈していたわけではありませんでした。
人々の間では自然発生的に、生きる喜びや楽しみが「うた」になっていきました。
それらは、おおらかに男女の営みも「うた」にするようになっていったのです。

(つづく)


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Posted by チバりよ at 12:00│Comments(5)よーかい
この記事へのコメント
ううう〜、オモシロくなってきたゾ!
第3話を読み終わるまで、コメントをガマンしますぅ。
Posted by かり管1号 at 2005年12月09日 16:05
かり管1号さん、どうもありがとうございます(^▽^)

正直、書きはじめるまではかなり悩みました。
「こんなこと、楽しくないひとの方が多いだろうし、ひとによっては見たくないこともあるかもしれないし…」

でも、「オモシロ」いと言っていただけてすごく救われる気がします。
このシリーズの残り1回も、入魂の特盛りでお届けいたします!
Posted by よーかい at 2005年12月09日 22:09
僕も楽しみにしている一人です。
Posted by にしやん at 2005年12月09日 22:55
>にしやんさん

どうもありがとうございます(^▽^)

いま、このシリーズの「最終回」の原稿を書き終え、最後のチェックをしているところです。

どうしても、最終回の内容は、これまで以上に暗く悲惨なことにも触れなければならないだろうなぁ、と覚悟しています。

そして、また稿をあらためて、「それでも“うた”が再生していく道のり」も書かなければならないなぁ、とも感じているところです。
Posted by よーかい at 2005年12月10日 10:28
まぁー、国家権力ってのは処構わず手を出してくるって性質なんでしょうかねぇー。

前回、大和の近世に入ってからの動向でも仰っておられました自然の力を恐れなくなったことの反動としての庶民信仰の否定とそれの原動力となっていた芸農民などの差別化そして歌の消滅への流れですが、これを権力者の視点から見ると宗教の権力体制への組み込みと権力体制維持のための差別民の存在とも言い換えることが出来ると思います。権力者にとってはチャンス到来ってことだったんでしょうね。鎌倉幕府だって、あんなに神を恐れ陰陽師に占ってもらって政策判断してたくせに・・・もう、ころっと変わちゃうんだから・・・。

いよいよ、おおずめ、楽しみにしています。

      つのいいちろう
Posted by 角井 一郎 at 2005年12月10日 11:55
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