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2005年12月08日

ヤマトによる神殺し(第一次)

ヤマトによる神殺し(第一次)
(「もののけ姫」と本文がどう関わるか…読めばわかります。笑)

「神々」が殺されたとき、「うた」も殺されました。

網野善彦の研究によると、だいたい室町時代頃に、ヤマトでは価値観の大転換が起こりました。
それは一言で言うと、「自然は畏怖の対象ではなく、征服できる対象である」という変化でした。

これは、単に木々や植物などの「自然」に限りません。
かつて人々にとって「自然」とは、古代アニミズムからの流れを汲む「八百万の神々」そのものでした。
後述する「自然」に付随すると考えられていた人々も、「神の使い」として畏れながらも敬われていました。
そんなすべてが、排除や征服の対象にされてしまったのです。
網野の言葉を借りれば、「聖」から「俗」への転換現象がおこったのです。
現在まで続いている様々な差別の根っこはここにあったといえます。


例えば、女性。
「産む性」である女性は自然に近いものと見なされていました。
古代の日本社会では土偶などに残っているように、女性の「神性」が尊重されていました。
シャーマニズムの担い手も女性でした。
やがて女性の「シャーマン的神性」への信仰が廃れていっても、鎌倉時代までは女性全般への差別は存在しなかったといいます。
事実、北条政子のように、女性の権力者も登場しましたし、財産分与権なども多くは男性と同等だったそうです。
女性が男性よりも下位に見られる思想は、ヤマトでは室町時代頃に広まったのです。

次に、障害者。
かつて障害を持った人は、通常の人よりも「神に近い存在」とされていました。
ゆえに、社会全体が障害を持った人に対して寛容さがあり、村全体で面倒を見る存在でした。
なかには、「神の言葉を告げる者」として人々から敬われた障害者も存在していました。
しかし、やはり自然の神性が薄れてきた時代から「差別」や「隔離」の対象にされてしまいました。

そして、芸能民。
かつて神社の境内などは、人間の力の及ばない神々の領域とされていました。
ゆえに、芸能民、博徒、遊女、放浪民など「聖なる者」が集まる場所でした。
ん?なぜ彼らが「聖なる者」だったのでしょう?

それは、芸能民はこの世のしがらみから離れた「化外の民」として、より神に近い「聖なる存在」だったからということがまず挙げられます。
例えば、空也が平安時代に始めた、「踊り念仏」を庶民に広めた時衆。
鎌倉時代にできた新仏教で、踊り念仏による布教を中心に行いました。
彼らは各地を巡り、橋をかけたり道路工事をしたりしながら、神社の境内で「踊り念仏」を踊り信者を増やしていきました。
やがて庶民に広まった踊り念仏はヤマトでは盆踊りになり、沖縄ではエイサーへと発展していきました。
しかし、室町時代頃以降の芸能民は、その「異形」さから、差別の対象へと貶められていきます。
(山伏なども同様に、その「異形」さゆえ、信仰の対象から差別の対象にされていきました。)

博打は、もともと「神意を表す」行為でした。
サイコロも富くじも、人間の力の及ばない神の力が働くものと思われていたのです。
ゆえに、博徒は室町時代頃までは神の言葉の代弁者でした。

遊女も、かつてはただ体を売るだけの存在ではなく、神と結びついた芸能の民でした。
歌舞伎は、もともとは出雲阿国という女性が始め、遊女たちによって広まったものでした。
女性による神聖な芸能とされていたのです。

さらに、放浪民。
これはすべての「異質な者達」と言い換えることもできます。
彼らは石を持って追われるような存在ではなく、畏れられながらも、敬われ、共存していく存在でした。

ところで…ここまでの内容で何か気付きませんか?
そう、まさに宮崎駿監督「もののけ姫」の世界です。
「もののけ姫」は網野の研究を原作に、後の「被差別民」の立場から描いた作品だったのです。
ゆえに、物語の後半は「神殺し」が重要なテーマになっていくのです。


もう一度繰り返しますが、彼ら(女性、障害者、芸能民、放浪民など)は自然と結びついた「八百万の神々」的な存在だったのです。
人智でコントロール不能な存在であり、ゆえに「聖なる者たち」だったからです。
ゆえに彼らと「いかに折り合い、共存するか」が重要だったのです。

けれども、技術の進歩等で、「自然は人間が改変でき、征服できる」存在へと墜ちました。
同時に、「いかに折り合い、共存するか」という考えは消え、異質な者を排除する傲慢さへと変わったのです。

ここで、「うた」も消えていきました。
ヤマトでの「うた」はもともと神事(=「ハレ」の日)と結びついた「聖」なるもので、一般庶民が「ケ」の日(=ごく日常)に唄うものではなかったのです。
そのために、芸能民が「俗」へと貶められ差別されるようになり、伝えられるべき「うた」も多く消えました。
(もっとも、江戸時代に入り、「民謡」という形で「うた」はヤマトでも一度は再生していきます。)

さて、尚巴志による琉球王国の成立は1429年。
薩摩による支配が始まった島津侵攻は1609年でした。
琉球ではヤマトよりもずっと後まで自然や神の「聖」性は残りました。
それでもヤマトに服属することになって以降「神々の国」琉球でも、「神殺し=うた殺し」が始まったのです。

※この話は全3回シリーズでお届けします。
(つづく)


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Posted by チバりよ at 22:53│Comments(7)よーかい
この記事へのコメント
うーん、大作ですね。

中世までの歌が神聖であり「ハレ」の場で歌われるのであって庶民は怖ろしくも日常の「ケ」の世界ではけっして歌われなかったこと良く分かります。

特殊な言葉には魂が宿ると信じられていた言霊思想にあって、その言葉はシバシバある種のメロディーと言うか音楽的要素が加えられて神に奉納され、かつそれが伝承するのに都合が良かった。まあ、これが歌の発祥であったのかもしれませんね。

だから、この歌は畏れ多いものであって神事
(ハレ)以外に口にすることはタブーとされたのでしょう。しかし、農作業などの手仕事に付随して自然発生的に声となった仕事歌などはあったに違いないと思われますが、中世までの「ハレ」と「ケ」の歌の共存についてはどのように考えたら良いのでしょうか?

      つのい いちろう
Posted by 角井 一郎 at 2005年12月10日 08:54
>つのいさん

うーん、中世までの「ハレ」と「ケ」の歌の共存ですか…。
たしかにご指摘されるまで気付かなかったテーマです。
そして、「うた」を考えていくうえで、非常に重要なテーマだと思います。

今後の課題にさせてもらえませんか?
ちょっと時間かかるかもしれませんが、自分なりに調べてみたいと思います。

どうもありがとうございます(^-^)
Posted by よーかい at 2005年12月10日 10:22
うーん、ハレとケってチョット抽象的すぎる概念かもしれませんね。


神の歌、労働の歌、恋の歌ちゅう三つ位の流れが同時進行してたとしても可笑しくないなとも思っています。

神の歌は網野先生の仰る庶民史の中で論じられて良いと思います。これとは別に仕事歌や子守唄などの労働歌は体を動かすリズムや辛い労働を訴える心情などを背景に生まれ継承され、歌垣や毛遊びで掛け合った恋の歌と合流して今に残る民謡の元歌となったという流れもあっても良いような気がします。

そういう意味からも三つ位の流れを追ってみるのも悪くないかなぁーと勝手にイメージしています。益々、よーかいさんの続編に期待しています。
Posted by 角井 一郎 at 2005年12月10日 11:19
>つのいさん

そうですね(^-^)

歌垣の流れは、アジアから八重山を経由して古琉球からヤマトへと流れていったことまでは調べはついているのですが、なかなかそれ以上詳しい内容を記した文献などに巡り会えていないのです…。

ところで話は変わりますが、自分は大学時代教職過程を取っていました。
もともと教職課程のない学部で、教職課程ができたのが大学2年から。
しかも、ほとんどの科目が卒業と関係ない単位でしたし、横浜市内の大学の授業が終わった後、週3回、東京の校舎で夜間の授業を受けなければ教職がとれないという、かなり厳しい状況でした。
それで、初めは120人いた教職志望者で最後まで残ったのは5人…。(自分自身、いま現在教職を職業にはしていませんが…。汗)

でも、たまたまその過程で受講した「日本史」を教えてくださった先生が、なんと網野氏の直弟子(本によっては共同研究者として名前が出ているひと)だったのです!
これはすごくラッキーなことでした♪(^▽^)
授業を聴きながら、目からウロコが落ちまくりでした。
なにせ、博徒の歴史、遊女の歴史、被差別民の歴史、海洋民の歴史…と、網野史学を直接受講できたのですから。

あのころは他にもへんな先生がたくさんいて楽しかったなあ…。
Posted by よーかい at 2005年12月10日 12:39
そうですか、庶民史が大学の「日本史」で聴けたちゅうのはラッキーでしたね。まだまだ好事家の範囲で読まれているのかなと思っていました。

それから歌垣ですがアジアの照葉樹林帯の少数民族に散見されることなどから同文化と何らかの関係があるのではないか・・・という話を聞いたことがありますか?(同文化圏では歌垣が生まれやすいってことなのかな?)

また、「田植え唄」の掛け合い唄に由来するとすると稲作の伝播とセットで流れて来たとも考えられますね。

小島美子「音楽からみた日本人」には、これらを音楽理論を交えて論じておられますが何分その方面に素養がない私には上手く読み解けません。もしも機会がありましたら読み解いていただくとありがたいです。

    つのい いちろう

Posted by 角井 一郎 at 2005年12月10日 16:19
>つのいさん

「音楽からみた日本人」、いまアマゾンで見たら在庫切れでした。
どこかの本屋で見つけたら読んでみますね~(^▽^)

ところで、大学で民俗学の先生は久高島研究で有名な写真家の故・比嘉康雄先生でした。
大学4年の時にしか授業を受けていなかったのですが、当時はあんなにすごい人だとは思ってもいませんでした。
もっとたくさんお話を聴いたり話したりすればよかったなぁ…。
比嘉康雄先生のことは、もしかしたらいつか記事にするかもしれません(^-^)
Posted by よーかい at 2005年12月10日 21:07
ほっほぉー、比嘉先生ですかぁー。

学校の先生もされていたんですね。それも写真でなく民俗学で・・・。写真集の巻末に、その島に伝わる神歌が克明に記録されていましたので只者ではないなと思ってはいたのですが・・・。

比嘉先生のお話も楽しみにしています。
確か先生は警察官出身でしたよね。沖縄の離島の神事を写真に記録する中で独自の民俗学を構築していったのでしょうか?

     つのい いちろう
Posted by 角井 一郎 at 2005年12月11日 09:45
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